(60)喪失からの道のり3.何処へ

  15歳と4ヶ月でボニーは亡くなったわけだが、人間であれば中学3年生くらいということになる。生後3ヶ月から育てて、この長い年月は、単なる数宇の上では語り得ない物語がある。もちろん人間と犬とを比較すること自体間違っているのだけれども、こちらが人間なだけに、ひとつの「命」を育て、そして喪失へと至るまでの年月は、どんなに価値あるものにも勝る人生経験だ。

 とはいえ、ぼくにとってボニーの存在は、子とか恋人とか、そういう言葉では言い換えられない(よくそう言われたのだけれども)。

 ぼくにとっては、変な言い方かもしれないけれど、ボニーは、ぼく自身だった。ぼくの代わりに15年前にやってきてくれた、ぼく自身の命の源だった。だからボニーが亡くなったということは、ぼくが亡くなったということと同じだ。

 こんなこと言うと、「おいおい、大丈夫か?」と心配してくれる人がいると思うけれども、正直、そんな感じだ。

 だからこれからぼくは、自分自身のなかにあるはずの命の源を見つけるべく、あたらしい世界へと旅立たなければならない。ボニーはそれを死をもって伝えてくれたのだと思える。

 簡単には見つからないはずだけれども、そんなふうに今日思った。


 ぎりぎりにともに生きてきた道を
 ひとりで何処へ進めばよいのか。







 
 


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