(62)喪失からの道のり5.少しずつ遠くへ

 少しずつ、現実にあったものが、過去の記憶の幻へと移りつつある。ついこの前まで、この手で毎日触れていた存在にまったく触れなくなって、この目で見ていた存在がまったく見えなくなったということが、実感としてわかってきた。最近はようやく「ボニー」と振り向いてしまうことはなくなってきた。

 ボニーはもういない。そのことが亡くなって2週間が過ぎ、ようやく受け入れられようとしている。でもなんとなくうつろだ。

 明日にも東京がロックダウンするかも、いやぼくが住んでいる横浜も近くそうなるかも、などなどと世の中が大変な騒ぎになっているのだけれども、ぼくにはどこかこの現実が空虚な大芝居のように思えてしまい、そうか、ボニーはこんなから騒ぎの世界に突入する前に、ほんとうの世界に立ち去っていったのか、などとウィスキーを飲む。

 いや、逆にボニーと一緒に過ごした15年が幻であって、いまのいまがほんとうの世界なんだ、などとボヤーっと考える。

 なんだかやっぱり、まだ例の「ショック期」の中にいるのだろうなと思いながら、今日は好きなリルケという詩人の詩を読んでいた。


 だがお前が逝ってから、この舞台の上に
 一筋の真実が、お前の通って行った隙間を通して
 差し込んで来た。真実の緑のもつ緑、
 真実の太陽の光、真実の森。
      (「死の経験」より。高安国世訳)


 いつもボニーが日光浴していた庭が、今日の夕方にがらんと春の美しい光を浴びているのを眺めた。

 
 いつになくうつろな瞳で庭を見て
 幻の光がお前を包んだ


 


 
写真を見るのは辛い。。。


 

 

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