(65)喪失からの道のり8.変な兆候

 3月末。少し近所のK公園の桜を見に一人で行く。満開。ウィスキー小瓶をドラッグストアで買い、桜を見あげ、若かったボニーと来た日々を思い出した。ほんとうなら、バギーに乗せて一緒に行きたかった。

 ここ2日ほど、きつくなってきた。ボニーと過ごした(特に晩年の介護の日々の)習慣が一つ一つ蘇ってきてしまう。例えば、朝早くに起きて、ぼくを待っているボニーに「おはよう」とハーネスをつけ、うまく歩けないボニーを支えながら「よし、行こう!」と散歩に出る。その時の当たり前だった一挙手一投足が、今も体の奥に染み付いていて、それをしないでいることがもどかしい。あるいは夕方に買い物に行く時、寂しそうな目をしているボニーの頭を撫でて、「すぐ帰るからね!」と声をかけて出かけ、急いで帰ってバギーの用意をする。そんな些細なことが、頭では分かっていても、どうしても体から抜けきれない。

 亡くなってから2週間余り、案外自分はこの喪失から回復できるかな、と思っていたけれど、今にきて、そんな体に染み込んでいるものが一々出てきて、何事にもスムーズにうまく行動ができないのだ。

 もしかしたら、世の中全体が新型コロナで異常事態になっていたり、志村けんが亡くなったというニュースも影響しているのかもしれない。いま、何かが異常だのだ。

 K公園からの帰りにある石段を、酔っぱらった足取りで、ボニーとともに歩いたなと一歩一歩を確かめながら降りて行った。すると向こうから男子中学生二人がはしゃぎながら走ってきて、ぼくを見るなりすっと黙って脇に寄り、しずかにすれ違った。

 さみしさが胸奥から噴き上がる。





  (去年、桜の下で)

  今日は歌は出てこない。
 

 
 
 

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