(68) 喪失からの道のり11.かけがえのない存在へ

 数日前の気持ちのダウンから、かなり回復してきたと思う。ボニーと過ごした15年4ヶ月を、ひとつひとつ思いだし、亡くなるその瞬間までのことを、まぎれもない自分の人生そのものであったと噛みしめる。

 昨日は音楽について書いたけれども、実はぼくは文学を専門に仕事をしていて、犬文学についてかなり読んできたから、このブログに書こうかなと思うのだけれど、犬に限らず、猫でも、鳥でも、人間でもいい、ひとりのかけがえのない存在への愛そのものを伝える作品は、ボニーを看取ったあと、すべて感動する。

 「夜、一つの明りが私達を近づけ合っている。その明りの下で、物を言い合わないことにも馴(な)れて、私がせっせと私達の生の幸福を主題にした物語を書き続けていると、その笠(かさ)の陰(かげ)になった、薄暗いベッドの中に、節子はそこにいるのだかいないのだか分からないほど、物静かに寝ている。ときどき私がそっちへ顔を上げると、さっきからじっと私を見つめつづけていたかのように私を見つめていることがある。「こうやってあなたのお側に居さえすれば、私はそれで好いの」と私にさも言いたくってたまらないでいるような、愛情を籠(こ)めた目つきである。ああ、それがどんなに今の私に自分達の所有している幸福を感じさせ、そしてこうやってそれにはっきりした形を与えることに努力している私を助けていてくれることか!」

 これは有名な堀辰雄『風立ちぬ』の一節だけれど、この「節子」が「ボニー」であってもまったく同じだ。この1年ほどの晩年のボニーの側で、毎晩ぼくはこんな精神状態であった。夜と朝の境目がなくなっていくような。。。

 
  渇きゆく涙は散りゆくさくらとなり君の記憶にこぼれゆく夜



  

(去年の今日)


いま、堀辰雄を読みながら、ボニーが亡くなる前夜に一緒に聴いていた音楽をかけている。







 

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