(70)喪失からの道のり13.ヘッセの詩

 毎日これを書いていて、何を得られるわけでもなく、救われるわけでもなく、つづける意味は何だろうと思うと、やはり、まだボニーに触れていたい、というただそれだけのことだ。現実には触れられないから、まだ記憶の中で生きているボニーに、言葉で触れていたいのだ。

 今日、夕陽が沈むのを部屋から眺めながら、ヘッセの詩を読んだ。


「幸福」

幸福を追いかけている間は、
おまえは幸福であり得るだけに成熟していない、
たとえ最愛のものがすべておまえのものになったとしても。

失ったものを惜しんで嘆き、
色々の目あてを持ち、あくせくとしている間は、
おまえはまだ平和が何であるかを知らない。

すべての願いを諦め、
目あても欲望ももはや知らず、
幸福、幸福と言い立てなくなった時、

その時はじめて、でき事の流れがもはや
おまえの心に迫らなくなり、おまえの魂は落ちつく。


(高橋健二訳)



 そうか、ボニーが生きていたとき、自分の魂は落ちついていたかもしれないし、いまの方が落ちついているのかもしれない、などなどこの詩を読み考えてみた。でもヘッセの詩は、実はもっと深いところで語られていて、幸福とは、すべてを失ったあとの、「無」そのものだ。

 ぼくはそこまではまだ達観できていない。いまはコロナ戦争中だから、ボニーとの幸福な時間を思い出しながら、まだ無ではないと、明日も生き抜く。

 失われた時はまだ到来せずに 夕陽のなかに君を見つけた  


 


(去年の11月はじめ、夕方のO公園で)

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