(79)喪失からの道のり22.ひとつの乗り超え

 昨日の冷たい雨から一転、今日は気持ちのいい快晴。そんな天気の変化だけでも、何か一線を乗り越えた気がする。

 昨夜は、はじめての月命日の終わりに、まるで儀式のように蝋燭に火を灯し、バッハのミサ曲などを聴き終わり、深夜にベランダに出て、急速に雲が流れて嵐が去っていく夜空を眺めた。目の前にはボニーとよく散歩した公園の木がしじまの風に揺れていた。なんとなく、ボニーがすこし自分のなかで透明な存在になって一体になってきたような気になった。

 それはぼくの「記憶」の引出しの中に、ボニーがスッと入っていった感覚かもしれない。これまでは「ボニーがいなくなった」という現実に引き裂かれた痛みが、ぼくを襲いつづけていたけれど、ほんとうの意味でボニーと一体となってきたという安心感にも似た感覚だ。

 よく「安らかに」という言葉を死者に向けて祈るけれど、実はそれは自身への祈りなんだと思う。


 そして部屋に戻り、ウィスキーを飲みながらリルケの詩を読んだ。その一節。


 そこに一本の樹がのびた おお 純粋な乗り超えよ
 おお オルフォイスが歌う おお 耳のなかの高く聳えた樹よ
 そして全ては黙った だからその沈黙のなかにさえ
 現れたのだ 新たな初まりと合図と変身が

 (『オルフォイスへのソネット』より 富士川英郎訳)



 目をつむり鎮まる嵐の音をきき 夢のなかで君と眠る


  


(4年前の大晦日の庭で)

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