(84)喪失からの道のり27.燃え尽きた

 次の人生に進もうとしても、なかなかうまくいかない。不思議に思う。小中高大と次々と別世界にジャンプしていったころは何だったのかと思う。47歳では当然あのころとは違うけど。

 あの頃はすでに大人が用意していた道であったからでもあるが、若さゆえの経験の重しが軽かったゆえでもある。同時に「命」の重みも知らなかった。

 愛する存在を失うということの重みは、ある意味で自分の命の重みを知ることでもある。なぜなら、ぼくは自分の命がとても軽いものとずっと思ってきたから、ボニーの死の衝撃で、これほど自分がダメージを受けるとは思わなかったからだ。自分がこれほど愛する存在の喪失で痛みを感じる人間であることの発見。自分はそれほど「命」を重く支え、「命」に支えられていたのかという発見。くさい言い方かもしれないけど、愛するとは、自分の生を燃焼し尽くし擲(なげう)つもので、自らの生の保存本能を超えている。

 むかし「燃え尽き症候群」という言葉があったが、まさにいまのぼくはそれだと思う。「Burn Out」だ。あの「あしたのジョー」の最後の「真っ白な世界」を生きていくことはできるだろうか。
 
 今日は、老いた両親にカレーを作りながら、いまは「三密」を避けて窓を開けて別々に食べるよ、と言ったら、父が、じゃお前が部屋から出てけ、というから、庭でカレーを食べた、母は笑っていた。

 ボニーの親友だった庭猫親子が匂いに誘われてボニーのお古のハウスから出てきた。
 
 思わず声を出した。

 ボニー、助けてくれ。


 燃え尽きてほんとうの眠りに落ちる前に君の笑顔を思い出し眠りたい



 (去年、いつかの庭で」






 

 

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