(87)喪失からの道のり30.閉じこもること

 ボニーが死んで、ひとりになった自分は何者なのかと問い続けているが、なんだかよく分からない。15年もの間、ともに生きてきた時間はあまりに長く重い。

 自分がひとりであるということ、それは当たり前のようで、実におかしいことだ。人間がひとりきりであらねばならないことは、ほとんど絶望的だ。目を開けば、空や雲やゴミ箱やウィスキー瓶やなどなどがあり、全てが自分に何かを語りかけてくるはずなのに、この1ヶ月、何も語りかけてこない。それはおそらく、自分がボニーの死のショックから目覚めず、目の前の事物の声に耳を塞いでいるからだと思う。

 コロナの問題がそれに拍車をかけている。部屋に閉じこもること、それは世界から自分をシャットアウトすることだから、ボニーの記憶に染まった内面をじっと見つめていくことになる。

 閉じこもるといえば、30年前に、ぼくは浪人生だった。二浪だった。あのときも、部屋に閉じこもって内面ばかりを見つめていた気がする。それゆえに素晴らしい文学や芸術に出会い、感動した。あの時のように、30年ぶりに浪人することにしようか。叫び声を隣の部屋から聞きながら、読書をしまくり、何も生産的なこともせず、ただひたすら何かを「書く」。

 それもいいかもしれない。実は晩年のボニーとの日々もある意味そうだった。ひたすらボニーと閉じこもって過ごした。それは誰も知らない幻の世界だろうか。


 天井を見つめて君を思い出し 目を瞑って夜をさまよう



 
(5年前の冬)

 

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