5月末の夜、いろんな思いが過ぎる。
前回、ボニーの2回目の月毎日で書いて以来、2週間弱が過ぎた。この間、コロナの状況が日々変化して、ぼくの生活も変化した。家族との関係も、そしてボニーへの思いも。
15年前、パピーのボニーが実家に来たとき、もともとは僕が育った部屋にボニーは来た。ボニーと入れ替わって、ぼくは外の部屋を借りた。だからボニーが13歳の夏に最初の脳梗塞になるまで、ぼくは毎日近くの部屋から早朝5時頃にこの部屋に来て、夜までずっと外をかけめぐり、またこの部屋に戻り過ごした。そしてボニーを夜に寝かせて、バイクで外の部屋に帰った。
そう考えると、いまボニーのお骨と過ごしているこの二階の小部屋は、ようやくこの15年4ヶ月の日々の原点に戻った気がする。ボニーが来る前の自分と、ボニーが去った後の自分がつながる部屋として。
だからかもしれない。この部屋からそろそろボニーとともに次の部屋へと旅立つときと思う。
百箇日は6/20だ。百箇日とは、四九日の後にくる、残されたも者がようやく未来へ進む時らしい。
ボニーがもたらしてくれた幸福の日々を、これ以上この二階の部屋に閉じこもりながら、家族との諍いに耐えたり、ボニーが来る前の殺伐とした世界に戻って汚さないために。なんのためにボニーがぼくの代わりにこの部屋に来て、この家族のために来てくれたのか、と切に思うから。
きみがいて救われたからきみといた
この部屋からいまきみと旅立つ
(あの頃。やっぱりさみしいな。)
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