今日6月20日はボニーが亡くなって百日目だ。仏教では「百箇日(ひゃっかにち)」と言うらしい。「卒哭忌(そっこくき)」とも言う。「哭(な)く」ことから「卒業」するのだ。そして明日からは日常に戻り未来を見て歩みはじめる。知らなかった。
どうもそんな気分でもあるが、そんな気分でもない。たしかに百日が過ぎようとして、ボニーとの長い15年4ヶ月の触れ合いが、「思い出」になろうとしているのは感じる。近所の道々を歩くとき、亡くなった直後や、1ヶ月後や、それこそ「四十九日」後などは、頑張らなきゃと思う気が先走ってしまい、ボニーがいなくなったことに胸が詰まる思いでいた。
でも最近は歩いていると、ここでよくおしっこしたな、うんちしたな、ここでいっぱいボールを追いかけたな、ここで子どもたちと遊んだな等々、すこしだけ遠くの風景を見るように思い出す。この間も書いたけれど、ボニーの幻を見れるようになった。それは良いことな気がする。
(でも、目頭に涙が少しだけ浮かんでもくるけれど)
明日からもこんな日がつづいていくだろうけれども、どことなく体もよくなってきたから、明日目が覚めたら、101日目だ、新たな気持ちで近所の道をボニーと歩こうと思う。そして久々に鵠沼海岸で遊ぼうと思う。
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